創刊主宰
能村 登四郎
1911年 (明治44) - 2001年 (平成13)
プロフィール
- 1911年(明44) 東京都台東区谷中に生まれる。祖父の出身地・能登にちなみ「登四郎」と命名される。
- 1918年(大7) 北区田端に移り、錦城中学に入学。伯父の山本六丁子より俳句の手ほどきを受ける。
- 1938年(昭13) 『馬酔木』入会。水原秋櫻子に師事。同年より旧制市川中学校(市川学園)に奉職。
- 1970年(昭45) 10月、石田波郷の強い奨めにより、主宰誌『沖』を創刊。
- 1985年(昭60) 第八句集『天上華』により、俳壇最高の栄誉「蛇笏賞」を受賞。
- 2001年(平13) 『沖』主宰を能村研三に継承。5月24日、90歳で逝去。
能村 登四郎
ギャラリー
各地に建立された句碑
沖 発刊1周年記念
林 翔と歩く(教員時代:市川学園にて)
水原秋櫻子師匠、林翔と
散策する登四郎
ベレー帽の登四郎
俳句結社「沖」創刊の歴史
能村登四郎の俳壇における歩みは、戦中・戦後の激動期とともにありました。
昭和14、15年頃、太平洋戦争へと向かう時代の中で、彼は中村草田男、石田波郷、加藤楸邨といった「人間探求派」の文学に強い感銘を受け、
俳句の世界にのめり込みます。
戦後、水原秋櫻子が主宰する「馬酔木(あしび)」の同人として活動していた能村に転機が訪れたのは、石田波郷が没する直前のことでした。
昭和44年、病床にあった波郷から「貴方はもう雑誌を持たなくてはいけない。主宰誌をもたない作家は一人前として通らない」という、遺言ともとれる重い言葉を託されます。
当初は自身の経営能力への不安から逡巡していましたが、波郷の死から三カ月後、その言葉が心に深く突き刺さり、自身の文学的主張を確立する場としての「独立」を決意します。師である水原秋櫻子の快い賛成と激励を受け、昭和45年10月、ついに俳句結社「沖」を創刊しました。
これは、伝統の枠組みを信じつつも、安易な継承に甘んじることなく、自らの「抒情」を結晶させるための新たな探求の始まりでした。
波郷の期待に応え、師の年齢(当時80歳)まで俳句に命を燃やしたいという悲願を胸に、彼は独自の道を歩み始めたのです。
昭和14、15年頃、太平洋戦争へと向かう時代の中で、彼は中村草田男、石田波郷、加藤楸邨といった「人間探求派」の文学に強い感銘を受け、
俳句の世界にのめり込みます。
戦後、水原秋櫻子が主宰する「馬酔木(あしび)」の同人として活動していた能村に転機が訪れたのは、石田波郷が没する直前のことでした。
昭和44年、病床にあった波郷から「貴方はもう雑誌を持たなくてはいけない。主宰誌をもたない作家は一人前として通らない」という、遺言ともとれる重い言葉を託されます。
当初は自身の経営能力への不安から逡巡していましたが、波郷の死から三カ月後、その言葉が心に深く突き刺さり、自身の文学的主張を確立する場としての「独立」を決意します。師である水原秋櫻子の快い賛成と激励を受け、昭和45年10月、ついに俳句結社「沖」を創刊しました。
これは、伝統の枠組みを信じつつも、安易な継承に甘んじることなく、自らの「抒情」を結晶させるための新たな探求の始まりでした。
波郷の期待に応え、師の年齢(当時80歳)まで俳句に命を燃やしたいという悲願を胸に、彼は独自の道を歩み始めたのです。
代表句
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
長靴に腰埋め野分の老教師
子にみやげなき秋の夜の肩ぐるま
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
曼殊沙華天のかぎりを青充たす
朴ちりし後妻が咲く天上華
初あかりそのまま命あかりかな
霜掃きし箒しばらくして倒る
月明に我立つ他は箒草
著書
【主な句集】
- 『咀嚼音』(1955)
- 『合掌部落』(1957)
- 『枯野の沖』(1970)
- 『民話』(1972)
- 『幻山水』(1975)
- 『有為の山』(1978)
- 『冬の音楽』(1981)
- 『天上華』(1984)
- 『寒九』(1987)
- 『菊塵』(1989)
- 『長嘯』(1992)
- 『易水』(1996)
- 『芒種』(1999)
- 『羽化』(2001)
【随筆・評論】
- 『現代俳句作法』
- 『花鎮め』
- 『伝統の流れの端に立って』
- 『短い葦』
- 『鳰の手帖』
- 『能村登四郎 俳句の愉しみ』
- 『秀句十二か月』
- 『欧州紀行』